昭和49年09月03日 朝の御理解
御神訓 一、「信心は本心の玉を磨くものぞや。」
確かにそうだと思います。皆さんもそう思われると思うです。ところが実際はこの本心の玉を磨くと言う事は、どんなにして磨くのかと言う事です。本心の玉を磨くと言う事。それは、磨かなければ、あの光は出ない。ね。金剛石も磨かねば玉の光は出でないと言う様な詩がありますよね。どんなに素晴らしい物であっても磨かなければ。だからその玉を磨くとか、物を磨くと言う事なら分かるのですけれども、本心の玉を磨くと言う事が、なかなか分からない。
それはそれを砥石と思うてと。例えばその事によって改まり。ね。その事によって磨かせてもらうと。いわゆる磨こうと思えば磨く材料はいくらもあると。こういう風に言われますけれども、実際問題としてなかなかそれが磨くという事に繋がらない。昨日ある方のお取次ぎをさせて頂きました。子供さんが長い間病気をしておる。お母さんが熱心にお参りをしておる。まあおかげを頂いておはおりますけれども、スキッとしたおかげにならない。私はその事をお願いさせてもらっておりましたら。
あの黒のまあ木綿糸と言った様な感じの(黒々いとをね?)挟んでこう、切っておるけれども、中々切れんと言う所を頂きました。挟むというのは私はまあ所謂ここで言うならば合楽の徳だと思います。ね、はさみはやはりチョキンチョキンと言うから。やはり合楽皆が、ね、二十五年間の信心で、その徳が教会そのものについておると致しましてもです。ね、中々その糸が切れない。
そこでねこれを両方からね、例えばこうやって突っ張っておくと、スカッと切れる。親の事は子が願い、子の事は親が願い、願い合いいたせとおっしゃるが。取り分け私は子供の事はです。ね、例えば子供の病気は親の病気と、こう言われるのですから。ね。本当に子供の難儀な姿を見てです。親が改まらなければおられない。本気でおすがりしなければおられない。ね、その為ならば、たとえば辛抱もさせてもらおう、修行もさせて頂こう言う事になって来る。
そう言う事がです、何とはなしにやはり磨いて行く事ではないだろうかと思うです。ね。言うなら(桃が?)その玉ならばゴシゴシこう、こすると言う事もあるけど。本心の玉というのはです。ね、例えば子供の難儀な姿を見てです。ね、子供の病気は親が願う。福岡の三代、吉木辰二郎先生のお話の中にいつも聞かせて頂いたんですけれども。今北海道に(おとゆう?)という先生がおられます。息子さんが去年でしたか、見えられましたが大変頭の良い、大変信心も言うなら教学派の先生ですが、中々偉い先生です。
お母さんというのは、中々大変信念の強いお方だそうです。ある時に子供さんが、生まれながらにして目を、目が見えないという( )。ね。言うなら目が潰れておる訳です。それで初めて吉木の先生の、吉木先生のお取次ぎを頂かれた訳です。そして先生がお取次ぎをなさって、その御祈念をなさいますと神様から、ね。子供の病気は親の病気だと頂かれた。でその事をです伝えられた。子供の病気は親の病気だと。ね、そこで色々御理解を頂かれる内にです。本当に自分の我の強かった事。
自分が例えば子供が可愛い様に、ね、親に対してもそうでなからなければならんのだけれども、言うなら親の言う事にいつも背いてばっかりおる自分に、はあこんこんとお話を頂いて気付かれた。帰られて丁度お母さんがお裁縫をしておられた。ね、そこへ帰ってそれこそ両手をついて、お母さんにお詫びをされた。もう今までの私の親に対する考え方、在り方が本当に間違うておった事に気付きました。
今日は初めて初めてその事に気がついて、長い間本当に相済まん事だったという、お詫びをなさった時にです、あまり真剣な娘さんのそのお詫びに対して、お母さんもビックリされたですね。そしてアンタが意が悪いとじゃなかった、私も悪かったと言うて、親子の者が手を取り合うてお詫びし合うされたと言う事です。何かこう部屋で遊んでおられたそのお子さんが、新聞がこうあって、その新聞の上で何か遊んでおられたが、新聞の上にね、その音がするように涙が出たそうですね、子供さんの目から。
開眼のおかげを頂かれた。そして熱心に道を求め、信心をさせて頂きよる内に、言うならば北海道と言う様な、それこそ遠い所に布教にでも出られると言った様な信心を頂かれたという話を聞いた事があります。子供の病気は親の病気。ね、そこで、ね、心を開かれたのがです。ね、本当に自分の病気であると気付いて、そこからいわゆるお詫びをされる事になった。親子大変仲の悪い親子でおありになったそうです、お母さんと。いやどちらも言うならば我の強い、ね。
そこで私は思うのですけれども、本心の玉を磨くと言う事はです、先ずその我を取る事だと言う事になります。ね。いわゆる我を取って願うと言う事です。ね。それはどう言う事かと言うと、改まって願うと言う事にもなります。又はねお詫びをすると言う事はです、磨いて願うと言う事になるのです。いや磨いて願うじゃなくてですね、ね、願う事を神様へ誓う事になるのです。
子供が悪いのじゃございませんでした、私が悪うございました。これからは改めますこれからは例えば、なら親に口答えする様な事は致しません、親の前に素直になりますと言う事なのです。よく言う人があります。本心の玉を磨き磨けち。心を磨けち言われるばってん、どげんして磨くですかち。そう言われて、なかなかね。そりゃあ、もうアンタ、ね、自分様々な問題が、その問題を磨く材料、砥石として行かじゃこてと、と言うても、それならどげんして磨くか分からない。
実際分からないです。おかげを頂くと言う事。例えばんなら子供の事だけではありません。様々な問題、難儀と言う様なものでもです。一家が本当に勢を揃えて信心するならば、言うならば何ですかね。(苦労?)の糸も断ち切る事が出ける。苦労の糸と言う事は、私はめぐりの元、難儀な元と言う事だと思うですね苦労と言う事が。言うなら苦労の元を切ってしまう。どんなに例えばなら親先生お徳の高い方であってもです。
責任を持ってござる、はさみを持ってござってもです、これをダラッと下がっとったら、中々切りにくいです。私は徳の(貯金?チョキン?)というものはそんなモンだと思う、徳のはさみというのは。だから氏子が本気で願うという気になると言うか、本気で改まるという気になると言うか。本気で磨くという気になると言うか。それも私一人じゃない、子供の病気はとりわけ、夫婦の者が両端を持ってです。ここになって来る時にです、最近の御理解を頂くと例えば、んなら主人は疑いでも疑ってもいいのです。
子供の難儀な姿を見てです、どうか助けたいと思うならば、ワラをもつかみたいのが親心でしょうそういう時に。ね、それで疑うても良いから、すがるという姿勢を見せるという事が、こうやってその糸をシャンと持つ事じゃないでしょうか。だからプツッと切れん訳です夫婦の事は。私はそういう人が合楽に幾人もおられますから、今日はこの事を本当に聞いてもらおうと思ったんです。だからどう疑うても良い。今の合楽の( )、疑うてもおかげはやると仰るから、すがるという気になれば。
それが一家を上げてと言う事になり、夫婦が揃うてと言う事になる時にです、糸の端と端をシャンとこう持って、どうぞ切って下さいち言うから。ね、これは手じゃ切れんもん。やはり、ハサミがなからにゃ切れん。ね、言うならばお徳がなからにゃ切れんのですけども、お徳があってもダラッと下がったとだけじゃいかんち。切りにくい。ね、シャンと引っ張った時にスカッと切れる訳です。
そこからなら疑うて掛かっておる人でもです、ただ縋ると言う事だけでおかげになる。そこから神を信ずる心も含まれて来ましょうね。一家中が上げてそれこそ張りきったような信心をすんなら、もうおかげ頂くはずですね。しかもです今日私は、本心の玉を磨くという事をです、まあ聞いて頂いたんですけれどもね。幸せへの近道は何と言うても喜びだね、信心させて頂いて物の、物の事の道理を分からせてもろうて。ね。
それこそ嘘にでも良いから、有り難い有り難いと言うておれば、必ず有り難い答えが出て来るんだと。まして信心をさせて頂いて本心の玉を磨き、日々の改まりを第一とさせて頂いて。只今申します様な事からです改まる。ね、純な素直な心で行く内に心の眼が開けて来る。信心する者はいわゆる肉眼を置いて心眼を開けと仰る、その心の眼が開けて来る。心の眼が開けて来た時にです。
一切がおかげの対象でない物はない事が分かって来ます。心の眼が開けんから、困った事だとか、難儀な事だと言っておるだけであって、心の眼が開けて来たら、もうお礼を言わなきゃ相済まん事になって来るんです。だから心の眼を開く一つの段階としてです、本心の玉を磨かなければならないという事です。本心の玉が曇っておる、汚れておるから見えないのです。本心の玉がです光輝くするようになる。そこから心の眼が開けて来る。翻然として悟りが開けて来る。
今まで難儀と思うておった、困った事だと思うておった事は、みんな神様の神愛の表現であったと言う事をです、分からせてもろうてお詫びも出けこれからは、ね、お礼を申し上げる所の生き方。ね、そういうおかげがもう愈々人間幸せへの、言うならば近道である。いかにして言うなら、一切の事にお礼が言えれるような喜び、感謝の生活が出けるかと。為には先ずは本心の玉を磨かなければならん。ね。
本心の玉を磨くと言う事は、どう言う事かと言う事をです、今日はその北海道の(豊美先生?)と、吉木先生とのお取次ぎを願われ、またお取次ぎを頂かれて翻然として、ね、お詫びをする気になられた。子供の病気は親の病気と聞かれた時に、初めて自分が親に対する心の、心が足りなかった事を悟らせて頂かれてお詫びをされた。ね。そこから言うならば奇跡が生まれておる。ね。詫びると言う事願うと言う事。
願うと言うてもです、言うならばそれは一心。一生懸命の言うならこうちゃっとちゃんとこうね、糸を両方から引っ張る、緩しとったんじゃ切れん。けれどもシャンと引っ張るからストッと切れる。言うならば苦労の元が切れて無くなる。めぐりのお取り祓いを頂く事が出ける。そこからですね所謂心の眼も段々開けて来て、一切を感謝の心で受ける事が出ける。もうこれは限りないおかげからおかげへの。
言うならばおかげの目を切り花が咲きそしておかげへの目が実るというおかげになって来るのです。だからおかげへの、例えば早道とう事をです。私共は只おかげを一生懸命参って、おかげをおかげと言うのじゃなくて、先ずその本心の玉を磨くと言う事をです本気で一つ分からせて頂く。まだ磨くと言う事は他にも色々ありましょう。けれども矢張り自分自身でです、そこん所を検討して参りますとね。
ここにも磨く材料があったと言う事がハッキリ分かる様になり、ここにも改まらせて頂く材料があったと気づかせてもろうて、改まりに改まり磨きに磨いて、本心の玉を磨いて行く光を放ってくる。そこから、ね、肉眼を置いて心眼を開くようなおかげが頂けて来る。そこにはある者は、神様の御自愛と言うか。神様の氏子助けたいというお心だけしかない事の事実を分かり、悟らせて貰う所から。
本当のいわば信心の生活が出けるという風に思います。どうぞ一つあのこれは、ね、主人が信心がないとか子供が信心がないとかという、これは一つ信心のある者が子供に例えばなら主人に、又は家内に頼んでからでもそれは疑い疑う。ね、分かりなさらんなら疑いのままでも良いから、例えばすがるという気になって下さいという風に、一ついわゆる示現活動を家庭の中にね、起こして行かなければいけないと思うですね。
どうぞ。